西武立川駅から徒歩2分の東京カウンセリングルーム『こころの元気道』(立川市/多摩地域)カウンセリング料:1回 120分 6,000円
東京カウンセリングルーム
『こころの元気道』
全国からの対面・電話・ビデオ・自宅訪問によるカウンセリング
小学・中学・高校生・大人対象のカウンセリング
不登校、いじめ、うつ病、パニック障害などの克服なら
東京都立川市/多摩地域からのご来訪が多いこちらへ
開所時間 | 9:00 ~ 20:00 |
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FAX | 受付/24時間年中無休 |
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ようこそ 東京カウンセリングルーム『こころの元気道』 のホームページへ。
幸せ家族再生専門カウンセラー/認定心理士の野田和子です。
数あるカウンセリング機関のなかから、『こころの元気道』を訪ねてくださってありがとうございます。
わたしとカウンセリングの出会いは、今から 45年前の 20歳のときです。
不登校や引きこもりの少年・少女たちと出会いサポートするうちにカウンセリングに興味を持ち、心理学講座や研修会、ワークショップ、グループ・セラピーなどに参加してスキルを学ぶようになりました。
おかげで、それまで自己嫌悪や劣等感にさいなまれることの多かったわたし自身も、初めて「生きてて良いんだ」と思えるようになりました。
その後、さまざまな仕事を通して出会った方々の悩みや苦しみにともに向かい合い、問題の解決に向けていっしょに前へ進んでいくために、カウンセリングを活用するようになりました。
不登校やいじめ、子どもたちへの虐待や少年少女の犯罪・事件の報道に接するたびに、自分の心の奥底から周辺の大人への憤りを感じ、自分の非力に落胆することもたびたびありました。
でも、苦しむ子どもを一人でも多く助けるためには、親御さんやご家族、学校関係者など周りの大人がキーパーソン(問題解決のカギを握る人)となり、積極的に関わり方を変えていただくことがいちばんの近道だとも実感してきました。そしてメンタルの専門家の一人である心理カウンセラーが早期に関わることで、幸せな家族再生のスピードが一気に加速することも目の当たりにしてきました。
『こころの元気道』のカウンセリングは、何回も通わなくても、1回120分でその関わり方のコツを体感いただいて、皆さん笑顔で帰られます。
子育てで悩んでおられるお母さんやお父さん、ご家族の方々、ご自分だけで抱え込まず、まずは一度お問合せください。
希望を見つけ、笑顔で自分の『こころの元気道』を歩いていきませんか? 私にお手伝いさせてください。
親御さんが変わればお子さんも必ず変わります。
『こころの元気道』のカウンセラーは、基本的にどんなご相談でもお受けします。子育て以外のお悩みでもお受けできますので、ぜひお問合せください。

1961年(昭和36年)、鳥取県生まれ。丑(うし)年・おうし座生まれなので (?)、保育園児の頃から「落ち着いている」とよく言われるようになりました。
保育園から中学1年までの9年間、いじめを受けました。希死念慮(きしねんりょ)を抱いたのは 10歳でした。
中学生の時、胃潰瘍(いかいよう)になり、中学2年でパニック障害の発作、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状が出始めました。
19歳、むずむず脚症候群(レストレスレッグス症候群)の症状に悩まされるようになりました。
20歳、文京保母・保育専門学校(現:文京学院大学)を卒業し、保育士資格と幼稚園教諭免許を取得しました。
その後、当時、情緒障害児と呼ばれていた、不登校や引きこもりになった少年・少女やそのご家族の相談・サポート活動を始めました。時には、少女が引きこもる部屋のドア越しに、2時間以上話し続けることもありました。
同時期に、カウンセリングについて学び始め、さまざまな心理学講座や研修、グループワークに参加しながらカウンセリングのスキルを学んでいきました。
21歳、保育士としてベビーホテル(24時間託児保育園)で働き、夜働くお母さん方の相談にのっていました。
22歳の頃から、全日本カウンセリング協議会 加盟団体『セルフ《自立》カウンセリング研究所』のグループ・セラピーに複数回参加し、スキルと経験を積んでいきました。
同じ頃、保護観察になった少年・少女たちのサポート活動や相談を行っていきました。
24歳、更生保護法人 日本更生保護協会に就職し、その後、法務省保護局『更生保護』編集部へ出向。全国で約4万6,000人以上おられる保護司さん向けの月刊誌『更生保護』の編集に携わりました。
29歳、エイズ問題に関わるようになり、エイズNGO(非政府組織)法人の役員を務めながら、HIV感染について不安や悩みを抱えた方や感染した方(HIV陽性者)のカウンセリングやサポート活動、啓発活動、マスコミ対応、行政との交渉、相談員の研修講師、講演会講師、執筆等を行ってきました。
同時に、34歳から58歳までの24年間、東京都内保健所において、HIVクリニック・カウンセラーとして勤務し、エイズ検査に来られた方、そして陽性(感染している)と告知された方のカウンセリングを行ってきました。
46歳、HIV/AIDS診療を行うクリニックにおいて事務長として働き、患者さんの福祉に関わる事務やカウンセリングなどに携わりました。
47歳、偏頭痛、自律神経失調症、気分変調症、不定愁訴(ふていしゅうそ)と診断されました。
48歳、うつ病と診断されました。同時に、ここで初めてパニック障害、PTSD、失声症、不眠症、むずむず脚症候群、慢性胃炎と次々に病名を告知されました。
55歳、東京福祉大学心理学部心理学科を卒業し、認定心理士の資格を取得しました。
同年(2016年7月1日)、自宅に〝東京カウンセリングルーム『こころの元気道』“を開設しました。
現在65歳。カウンセリングの職人を目指しています。
【カウンセラーの資格・免許】
公益社団法人 日本心理学会 認定心理士
心理学士
保育士
幼稚園教諭
【対応可能な心理療法など】
フォーカシング(来談者中心療法)
認知行動療法
家族療法(ファミリー・セラピー)
認知セラピー(トラウマに焦点を当てた認知行動療法)
グループ・セラピー/集団心理療法(エンカウンター・グループ)
更生保護カウンセリング
HIV/AIDSカウンセリング

保育園から9年間におよぶいじめ、中学2年でのパニック障害の発症、その後のさまざまなこころの病気、そして何回もの転職。
わたしが歩いてきた道は平たんではなく、ここには書けないつらい経験もありました。
それでも、今日まで前を向いて歩き続けられたのは、行く先々での素晴らしい出会いと、深い学びがあったからです。
流されるのではなく、いつも次のステップを自分で選び、この道を一歩ずつ進んできたわたしにできることとして、今度はあなたのこころに寄り添い、いちばんの味方になりたいと思っています。
●老け顔の保育園児
4月生まれのせいか(?)、生まれつきほかの赤ん坊よりおとなしく「老け顔」でした。
保育園の頃クラスメイトたちから浮いていたそうで、一時的に1歳上のクラスに入れられたほどでした。
「落ち着いている」と「年上に見える」というセリフは、それから 30年以上言われ続けることとなっていきます。
●9年間のいじめと希死念慮(きしねんりょ)
保育園から中学1年までの 9年間、クラスメイトからのるいじめを受けました。
親や先生には気づいてもらえませんでしたし、怖くて自分から大人に話すこともできませんでした。
保育園の通園バッグを汚されたとき、意を決して、親に対して「○○君に汚された」と話しました。でも親はその声を聞き流し、何もしてもらえませんでした。親は「なんだこれくらい」と思ったのかもしれませんが、このとき、「親には頼れないんだ」と心の扉を閉じてしまいました。
両親の名誉のために書き添えますが、父も母も普段は温厚で明るく、叱られた記憶はありません。私たち三姉妹のやりたいようにやらせてくれました。
母は農家のプロで、どんな作物でも見事に育て上げました。メロン栽培をしていた時には、農協の職員が母を訪ねてきて、栽培のコツを聞いていました。
父は洋裁師(仕立て屋)と農家の兼業をしていて、小さい頃の思い出と言えば、作業台やミシンで一枚の布からー着の洋服を仕立てる後ろ姿が目に焼き付いています。学校から帰ると「おかえり」と応えてくれるのはいつも父でした。母と私たち三姉妹の普段着から中・高校の制服まで仕立ててくれていて、生まれた時からオーダーメイドの洋服を着るのが当たり前で、母は着物の寝着を仕立ててくれていました。
祖父も農家のプロで、米やスイカ・メロンの栽培など、本当によく働く人でした。自宅の敷地内ある竹藪(たけやぶ)から1本の竹を切り出し、幅1cm、厚さ3mm位まで小さく割いていって、直径 90cm位の大きなザルのような農具などを作っていました。私はその手さばきを見るのが大好きで、保育園から帰ると祖父の作業場へ直行し、竹の破材や切りクズでおままごとをしていました。
こうした職人の中で育ったので、学校の授業で細かな彫りを施した木箱や絵本を創作したり、自分の洋服をミシンで縫ったりするのが好きでした。
今でも美容師さんの手元やテレビで職人さんの番組を見るのが好きで、日本の職人に憧れています。
話がそれましたが、そんな時でも同級生からのいじめは続き、クラスでも完全に孤立していました。小学4年の時、思い切って先生に「○○君が嫌がらせをする」と訴えました。しかし反応はなく、「先生にも頼れない」と思いました。まさに「私は誰にも頼れない 」と悟ったのです。そして、初めて10歳で「死にたい」と思うようになりました。
TVや雑誌のニュースで未成年の子どもたちの自殺/自死が報道されるとき、必ずと言っていいほど「いじめがあったのではないか」と伝えられ、多くの場合、学校や教育委員会は「いじめの事実はなかった」とコメントします。
しかし、いじめは大人の分からないところで進むから問題なのです。どんなクラスにもいじめが起きる可能性があるという前提で予防と対策を講じなければ、いつまで経っても犠牲者は減らないでしょう。
●パニック障害の発症
中学2年生になると、いじめはさすがになくなってきましたが、その頃からパニック障害の発作に襲われるようになりました。
放課後、テニス部が練習するようすを校舎の窓からながめていた時でした。
突然体が硬直し、お腹のあたりからザワザワしたものがこみ上げ、頭まで達したときには声も出なくなっていました。身体が崩れ落ちそうになり、涙が止まらなくなりました。
声も出ないので助けを求めることもできませんでした。
たまたまそばを通りかかった2人の生徒がわたしの異変に気づき、体を両側から支えて保健室へ連れて行ってくれました。その後、落ち着いたので帰宅しましたが、大人になってから思えば、これが最初のパニック発作でした。
同じ頃、胃潰瘍(いかいよう)を発症し、病院に通うようになりました。PTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状も出ていました。その頃はまだパニック障害や PTSDという病名がなく、自分でいろいろ調べて不安神経症の症状にあてはまるんだなと思っていました。
高校生になると「○○な症状が出たら胃に炎症ができているな」という目安が分かってきて、休養するタイミングも分かってきました。
この頃、同級生が自宅の庭でガソリンをかぶり焼身自殺しました。同じバスケット部に所属していたので、知らせを聞いて愕然(がくぜん)とし、言葉が出なくなりました。その日の放課後、教室の窓からボーッとグラウンドを見ていて、昨日と何も変わらない景色に、大切な友人を失った行き場のない痛みに襲われ途方に暮れました。
17歳(高校3年生)の時、地元のテレビ番組に出演しました。鳥取県内の高校を順番に紹介していくという番組で、生徒会副会長だった私は、会長とスタッフの3人でスタジオへ行き収録をしました。初めての経験にドキドキワクワクでした。
●教母になりたい
自分に物心がついてから最も古い記憶で将来何になりたかったのか思い出すと、保育園児か小学生の頃は保育園の先生でした。当時いじめを受けていたわたしは、保育園児の間でのいじめを見つけて止めさせられるような先生になりたいと思っていました。
高校生になると教護院(きょうごいん)の教母(きょうぼ)になりたいと思うようになり、どうしたらなれるのか厚生省(現・厚生労働省)に手紙を書いて教えてもらいました。厚生省からの返事には、保育士の資格が必要と書かれていたので、保育士資格の取れる専門学校へ進学することにしました。ちなみに 1997年からは児童福祉法が改正されて児童自立支援施設の児童生活支援員と呼ばれるようになっています。
児童自立支援施設とは「不良行為をしたり家庭環境に問題があったりする子どもに対し、共同生活を通して自立支援や生活指導を行う施設」で、児童生活支援員(女性)は「子どもたちと寝食をともにし、家事(食事や洗濯)など暮らしていくうえで必要な生活力を伸ばす母親的役割」をもつ職員です。
●老け顔の女子高生
高校時代、サッカー部のマネージャーをしていたとき、県内の他校へ練習試合へ行った際、選手がケガをしてその学校の保健室へ連れて行くことになりました。
養護の先生にケガの処置をしていただき、選手をベッドに寝かせてグラウンドへ戻ろうとしたときでした。養護の先生から「ねえ先生、生徒は勝手にやらせておいて、お茶を飲んで行かれませんか?」と誘われました。引率の教師と間違われたのでした。
鳥取県立倉吉東高校を卒業後、埼玉県にある文京保母・保育専門学校(現:文京学院大学)へ進学し、保育士の資格と幼稚園教諭の免許を取得しました。
19歳の時、帰省する新幹線のなかで、たまたま隣り合わせた小学生と親子に間違われ、知らない方から「お母さんも大変ね~」と労をねぎらわれました。
●パニック発作やPTSD・むずむず脚症候群の発症
一人暮らしを始めてしばらくしてから、夜になるとパニック発作やむずむず脚症候群(レストレスレッグス症候群)、PTSDの症状がひどくなり、眠れない夜が続きました。翌朝になると症状は落ち着くため、学校に行くことはできましたが、夜になるとまた発作が起き、苦しい毎日が続きました。
●卒業直前の大きな勘違い
専門学校は保育士資格と幼稚園教諭免許を両方取得できる学校だったので、せっかくならと両方取得しました。
卒業する頃に教護院をはじめとした複数の施設を運営する組織に就職が決まり喜んだのですが、配属先が教護院ではなく重度身体障害者コロニーに決まったとのことでした。一方で決定的な勘違いが発覚しました。
当時の教護院は小舎夫婦制といって、実際の夫婦(夫は教護と呼び、父親的役割を果たします)が10人程度の子どもたちと一棟の小舎に住み込み、寝起きを共にしながら生活指導をしていくという制度になっていました。
つまり、独身のわたしには、そもそも入り込む余地がなかったのです。専門学校では創設以来初めてという教護院での住み込み実習も済ませていたのに、肝心なことが分かっていなかったのでした。
ちなみに1997年以降は、人手不足から夫婦ではない男女のシフト制になっているところもあるようですが。
社会福祉士や精神保健福祉士などの資格をもつ男性と結婚しなければ教母になれないと分かり、さんざん考えた末、採用を辞退することにしました。
わたしが採用を辞退したおかげで、同じ学校の卒業生が採用され、彼女がとても喜んでいたという話を聞き、「これも人の役に立てたか」と考え直しました。
しかし、これから自分の将来がどうなっていくのか、まったく描けない身となりました。
●情緒障害児のサポート活動
「苦しむ子どもを一人でも多く助けたい」という思いは持ち続けており、20歳の時、『情緒障害を考える会』というボランティア団体を知り、当時 情緒障害児と呼ばれていた不登校や引きこもりの少年・少女たちやそのご家族の相談・サポート活動を始めました。
事務所に集まる少年・少女たちに勉強を教えたり、相談を受けたり、自宅を訪ね親御さんの相談にのったりしました。
自宅の自室に引きこもった少年・少女を訪ね、部屋のドア越しに 2時間以上話し続けることもありました。家庭内暴力により家じゅうの壁に穴をあける少年、母親にケガをさせる少女、いろんなケースがありました。

●カウンセリングとの出会い
20歳の頃からカウンセリングについて学び始め、さまざまな心理学講座や研修会、グループワーク、グループ・セラピーに参加しながらカウンセリングのスキルと重要性について学び始めました。
22歳の頃から、全日本カウンセリング協議会 加盟団体『セルフ《自立》カウンセリング研究所』の『エンカウンター・グループ』というグループ・セラピー(集団心理療法)に複数回参加し、ここでもスキルを学べました。
グループ・セラピーの参加者がセッションを重ねるごとに少しずつ変化していくのを目の当たりにして、カウンセリングの重要性と可能性をますます感じました。
23歳の頃、エンカウンター・グループを通して出会った元映画助監督・演出家の巖谷平三(いわや へいぞう)さんとセッション以外でもお酒を飲みながら話す機会が多くなり、助手を務めることになりました。
高校生向けの教育スライドを制作したり、社員教育のために市民ホールのステージで行ったお芝居の脚本づくりや舞台演出の助手、巌谷さんの著書の口述筆記などを経験しました。
著書の一つ『ふだん着の人間関係ーーあるがままに生きる』(日本生産性本部刊)の口述筆記では、わたしと母のエピソードを語られそれを自分で原稿用紙に書くというくすぐったい体験をしました。
また同じ時、長期療養中だった、平三さんの奥様・丁子(ていこ)さんの病院に通い、身の回りのお世話をしたり、ベッド脇に腰かけてさまざまな話題について語り合いました。
丁子さんとはカウンセリングについて話すこともたびたびあり、充実した時間を過ごすことができました。
●ベビーホテルの保育士
21歳の時、当時『ベビーホテル』と呼ばれていた 24時間の民間託児施設で保育士として働きました。
お母さんのほとんどがバーやスナックのホステスさんで、夜間働くお母さん方から乳幼児をお預かりし、深夜や翌朝にお迎えに来られるまでに、食事やお風呂、遊びなどをしながら保育にあたりました。
いわゆるホステスさんというと、派手なメイクと衣装で、派手な生活をしているようなイメージを持っていましたが、実際お会いしてみると、その中にはシングルマザーも多く、一生懸命に働きお子さんを愛する姿に自分の偏見が恥ずかしくなりました。
お母さんから相談を受けることも多く、ここでもカウンセリングのスキルが大いに役立ちました。
●性的嫌がらせと尊厳
わたしが保育園から中学1年までの9年間いじめを受けましたが、男子による性的嫌がらせと言えるものも含まれていました。
保育園児の時は、毎日の昼寝の際、先生がその場にいなくなってから、男子に入れ替わり立ち替わり布団の中に手を入れられ体を触られました。そのため、昼寝の時は怖くて声を出すことができなくて眠ることのできない状態が卒園までの2年間続きました。
小学生の時は、スカートをめくって下着を見せることを強要されたり、先生のいない帰りの会の際、クラス全員の前で土下座をさせられたりしました。
わたしが生まれた小さな町では、保育園から小・中学校まで、同じ顔ぶれで進級していくので、転校でもしない限り逃げることができませんでした。
中学生の時には、親戚の男子から誰もいない部屋に連れていかれ、馬乗りにされて襲われそうになりました。この時はたまたま小母(おば)に見つかってそれ以上のことがなくて済みました。
それから親せきが集まるたびにその人物と顔を合わせることになり、そのたびに嫌な記憶を思い出させられました。
成人してからは、満員の通勤電車の中で、体を触られる痴漢(ちかん)に遭ったこともあります。
22歳の時、夜、仕事を終え自宅アパートへの暗い道を一人で歩いていた時に、いきなり後ろから抱きつかれる痴漢にも遭いました。
わたしは反射的に悲鳴を上げましたが、自分でも驚くくらい、それまで出したことのない声でした。振り向くと、男が逃げていく後ろ姿が見えました。顔は分かりませんでした。周りは住宅ばかりでしたが、誰も出て来てはくれませんでした。
一瞬の出来事でしたが、気がつくとオシッコを漏らしていました。アパートに帰っても体の震えが止まらず、警察に届けることも思いつかず、一晩中眠れませんでした。その後、夜道を歩くことが怖い時期が半年以上続きました。
性というのは、人が生まれてから死ぬまで嫌でもつき合わなければならない事柄で、アイデンティティー(自己同一性)に直結します。
そのため、自分の意思に反して体をちょっと触られたり、卑猥(ひわい)な言葉を浴びせられただけでも広い意味での性的暴力となり、「性的被害」は単に身体的な安全を脅(おびや)かされただけでなく、「自分に価値はあるのか」、「自分は生きていていいのか」というアイデンティティーの根底を脅かされ、自尊心を傷つけられ、女性としてのあるいは男性としての尊厳、人としての尊厳に重大なトラウマ(心的外傷)をもたらすことを再認識しました。
わたしは被害に遭ったことを思い出すたびに、「自分は無力な存在だ」「自分に落ち度があったのか」「消えてしまいたい」と罪悪感や恥の意識、穢(けが)れの意識、自己否定感に苛(さいな)まれ、ふたたび人間不信に陥ります。
今でも、小さい頃の思い出と言えば、楽しいことよりも、これらの苦しみを先に思い浮かべます。ニュースなどで「性的暴行」と簡単に言われる事件も、被害者にとっては自己をバラバラに破壊され、尊厳を傷つけられ、「自分は死んだのも同じ」と思わせられる恐怖の体験、こころの死ともいえる出来事が起きたのだと知ってほしいと思っています。
性暴行の被害者のカウンセリングでは、クライエントを単なる被害者とだけ見るのではなく、壊されたアイデンティティーを再構築し、「それでも尊厳ある人間だ」「そのことを超えて自分の人生を新たに生きるサバイバー(生き抜いた人)」として新しい自分を生きられるよう、そして「幸せになる権利があるのだ」とサポートしていきます。
これは、性的暴行の加害者のカウンセリングでも同様のことが言えます。被害者の体をちょっと触っただけでも、あるいは抱きついただけでも、「自分が被害者に対して何をしたのか」という意味を理解していただきます。
そして今後同じことを繰り返さないよう、また加害行動をトラウマとしてそれに支配されないよう思考と行動を変えるアプローチをしていきます。
●更生保護カウンセリング
23歳、ボランティア団体で主に保護観察になった少年・少女たちのサポート活動(BBS活動/Big Brothers and Sisters Movement)を始めました。
少年・少女たちの兄姉のような存在として彼らを支援する活動で、勉強を教えたり、相談にのったり、一緒にキャンプやバザーをしたり、さまざまな経験を通して子どもたちの心の成長を促すサポートを行いました。
少年・少女たちから相談を受けることも多く、更生保護カウンセリングという分野での学びを重ねました。
この頃、BBS活動での実績が評価され、総務庁(現・総務省)主催『第19回 青年の船』に参加して、日本人やオセアニアの青年たちと寝起きをともにしながら、50日間、客船『にっぽん丸』でオセアニア5か国の港を巡りました。
各国の施設や船内で、国際交流という活動をして、ホームスティも経験しました。下船後、報告書編集委員長を務め、それまで20年近く続いてきた報告書のサイズとスタイルを一新(B5判の縦書きから A4判の横書きへ)することを提案し、認められました。ここでも表紙とグラビアのレイアウト、本文のレイアウトを手がけることになりました。
1985年(昭和60年)の秋、24歳の時、更生保護法人 日本更生保護協会へ入職、事務をしていました。翌年、法務省保護局『更生保護』編集部へ出向して、保護司さん向けの月刊誌『更生保護』(創刊 1950年、発行部数 約 46,000部)の編集に携わることになりました。
保護司とは、法務大臣から委嘱された民間のボランティアで、少年院や刑務所から仮出所した人や、執行猶予中に保護観察がついた人と、多くは自分の家で月2~3回程度の面接を行い、近況を聴いて相談にのったり社会のルールを守るよう指導したりします。
また刑務所などに収容されている人が、出所後にスムーズに地域社会に戻れるよう、あらかじめ家族と連絡を取って住居や就職先などの環境を整えたりします。
保護司の制度は日本特有で、民間ボランティアが国を支える仕組みとして世界からも注目されていて、国内での知名度はイマイチですが、国際的には「HOGOSHI」とそのまま通用するようになっています。
●東京芸術大学
さて、1985年といえば、日本画家でのちに東京芸術大学学長を務め、その後名誉教授になられた平山 郁夫(ひらやま いくお)先生(当時、教授)が、過ちを犯した人々の立ち直り(更生保護)の理念に深く共感され、その運動を支えるために自らの呼びかけで「有芽の会(ゆうがのかい)」を創設されました。
同会は次代を担う若手日本画家の研究発表と芸術を通した社会貢献の場をつくることを目的とされ、法務省が主唱してきた「社会を明るくする運動」(通称:社明運動/しゃめいうんどう)の協賛行事として、日本画展覧会を開催することに尽力されました。
社明運動というのは、「すべての国民が犯罪や非行の防止と、過ちを犯した人たちの『立ち直り(更生保護)』について理解を深め、犯罪や非行のない安全で安心な明るい地域社会を築くための全国的な国民運動」(法務省ホームページより)です。
また月刊誌『更生保護』へご自分の掲載作品を無償で提供されました。平山先生の作品は表紙をめくった本文のグラビアとして掲載され、同誌を受け取った保護司さんのなかには、そのグラビアを切り取って額に入れて飾る方もおられたそうです。
平山先生のあとには、先生を師事される 宮永 岳彦(みやなが たけひこ)先生(当時、二紀理事長)、田渕 俊夫(たぶち としお)先生(当時、助教授)へとバトンが渡され、さらに 宮廻 正明(みやさこ まさあき)先生(当時、非常勤講師)や 手塚 雄二(てづか ゆうじ)先生(当時、非常勤助手)ら 30代の「有芽の会」のメンバーに、同誌のために毎月持ち回りで新しい作品を描くことと一言の文章を添えることを提案されました。
その直前に同誌編集部に出向した私は、その作品と文章を芸大へ預かりと返却に行く役目を担うことになりました。どの先生も締切り期日をきちっと守られましたが、文章には気の毒なほど苦心しておられる方もおられました。芸大まで電車で往復していた私は、作品を腕の中に抱え込み、傷つけないよう無くさないよう毎回緊張しまくっていました。
それでも、いちばん最初の宮永先生の作品を見た私は、それをグラビアとして掲載するのはあまりにももったいないと思い、表紙絵にすることを提案しようとレイアウトの見本を作り、「こんな風にしたらどうですか」と課長に話してみました。
創刊から 35年間変えていなかったんじゃないかという表紙だったので、あまりの違いに提案は却下されるかもしれないと思いましたが、「じゃあ保護局長に自分で説明してきて」と一任され、心臓バクバクで局長のもとへ行くことになりました。
法務省保護局長というと歴代、検事(検察官)が務められていて、当時の局長がまたコワモテの方だったので、内心ビビりながら説明しました。結果は、一瞬間がありましたが、何の問題もなく承認してくださいました。
作品を手にしてから表紙を変えるという数時間のスピード決済でしたが、そんな柔軟さのなかにあって自由にやらせていただいていました。
一方で、同時期に美術学部デザイン科・教授の 吉田 左源二(よしだ さげんじ)先生(のちの名誉教授)とお近づきになる機会を得ました。
吉田先生は「俺は図案家であってデザイナーではない」(斎藤 仁 著『上野の森の芸術家たち』PHP研究所刊)と仰っていたそうですが、アラビア文様、書道、水墨、漆、彫金、螺鈿(らでん)、押箔(おしはく)、友禅、岩絵具、印章、装身具、タイル、壁画、信楽焼……とその表現方法に限りがない。
吉田先生と平山先生は仲が良く、吉田先生も更生保護事業に関心を寄せられ、保護司章や社明運動啓発のためのバッチやペンダントをデザインされたり、平山先生と芸大教授・建築家の 清家 清(せいけ きよし)先生が共同監修された日本更生保護協会章をデザイン・制作されたり、仙台法務省総合庁舎ホールの壁画を造られたりしておられました。
日本画の受け渡しをするたびに、いつの間にか吉田先生の研究室へも寄って、お茶をいただきながらお話をしたり制作のようすを見させていただいたりするようになりました。
当時、礼宮(あやのみや)親王が秋篠宮家を創設されるときに宮家御紋や紀子妃殿下御印(おしるし)の図案を描かれた際、親王にこんなこと言われたんだよと、図案の原画を修正される手元をのぞき込む私に、エピソードを話してくださいました。
先生は 1985年に「源の会(げんのかい)」を創設され、一般市民をメンバーにしてデッサンや文様、デザインなどを指導しておられました。
仕事で芸大に通っていた私は早速メンバーに加えていただいて、休日に会の活動日が合わさると先生に指導していただいてデッサンや唐草文様をデザインしたり、芸大・講師の先生方に染色を教えていただきました。
型染(かたぞめ)でシクラメンやグラジオラスをモチーフに衝立(ついたて)を制作したり、なでしこをモチーフにデザイン・染色して母のために着物を仕立てたりしました。花をデッサンしている時には、私のスケッチブックに「こう描くんだよ」と、ササーッといろいろな花を筆一本で描いてくださいました。
何百というシクラメンの花を描く時には、「ずいぶん安い鉢を買ったね」と隙間の目立つデザインを笑いながら、つぼみやいくつかの向きの花をデッサンさせ、それを何十枚もコピーしてハサミで切り取り、茎に対してああだこうだと配置して見事な群生を描くという秘技(?)を教えてくださいました。
画家というのは一つ一つを地道に描きこんでいくものだと思い込んでいた私は、この技を知って「基礎ができてさえいれば、あとは自由に考えていいんだよ」というメッセージをいただきました。「遊びの粋人(すいじん)」と呼ばれた方で、打合せや源の会のシメは必ずと言っていいほどお酒が入り、実に楽しい方でした。
28歳の時、現在の上皇陛下が天皇に即位されたあと、当時の東宮さま(現在の天皇)の立太子礼(りったいしれい)が執り行われました。その際、日本BBS連盟を代表して、皇居で行われた祝賀会に出席し、宮中晩餐会(きゅうちゅうばんさんかい)というものを経験させていただきました。
豊明殿(ほうめいでん)で皇族の方々を遠くに見る末席でしたが、その分給仕をしてくださった宮内庁スタッフの方が初めての現場だったのか緊張されていて、その初々しさに気分がほぐれました。
出された料理は、慣例となっているフランス料理ではなく、手がかけられ皇室の伝統を感じさせる日本料理の品々でした。宮内庁楽部(がくぶ)の楽師による雅楽が生演奏される中で、「優雅な時間ってこんな感じなのかなぁ」という貴重な経験でした。
その時いただいた記念の金杯(か銀杯?)や料理のお品書きなんかが実家のタンスのどこかに入っているはずなんだけど……。
また、BBS活動を行うなかで、高松宮・同妃両殿下に活動を説明する機会を得て、テーブルを挟んで向かい合わせでお話させていただくこともありました。相手を緊張させることなく、年齢差も感じさせず、笑顔で話せるとても親しみを感じさせられるお二人でした。

●HIV/AIDSカウンセリング
31歳の時、エイズ問題に取り組むようになり、50歳までエイズNGO(現在はNPO法人)の事務局長などを務めたりしながら、HIV感染について不安や悩みを抱えた方・感染した方(HIV陽性者)のカウンセリングやサポートを行いました。
NGOに入会してすぐに、それまでなかった「エイズ電話相談のマニュアル本」作りを提案し、メンバー数人と取りかかりました。まったくの初心者ボランティアをエイズ電話相談員へ育成するために使うマニュアルだったため、「相談(カウンセリング)とは」というところから始まる内容でした。見本になるもののない状況だったので手はかかりましたが、自分の知識・情報を整理するのにとても役立ちました。
その後、啓発活動やマスコミ対応、行政との交渉、保健師や行政担当者のHIV/AIDSカウンセリングの研修講師、中学校・高校でのエイズ講演会講師を務め、『エイズと教育』『エイズと教育2』(大修館書店刊)や『健康保険』(健康保険組合連合会刊)、『保健婦雑誌』(医学書院刊)などに寄稿しました。
30歳、フリージャーナリストの櫻井よしこさんの取材を受けました。狭くて雑然とした事務所で、しがない NPO の一スタッフに1対1で真剣に向き合ってくださいました。真摯な姿勢にジャーナリストの神髄を見たようでした。トレードマークの華麗なヘアスタイルに見とれました。
完治療法がない HIV 感染症には、治療以外に闘わなければならない課題がいくつもあり、HIV 陽性者への対応の難しさをいつも感じていました。ここでもカウンセリングの経験を活かすことができました。
32歳、流産し、授かった命を失う喪失感、愛する者を失う悲しみと苦しみを味わいました。自問自答のセルフ・カウンセリングが救いになりました。
33歳、男児を出産。生後3か月で子どもを保育園に預け、仕事を続けました。以後、息子には、寂しい思いをさせ続けたと思います。私にとっては、ずっと心の支えです。
34歳から41歳までの間に、埼玉県庁や東京都庁からの相談を受けて、エイズ電話相談の開設と運営に携わり、電話カウンセリングを行うと同時に相談員の育成・研修にもあたりました。
何歳の時だったのか忘れましたが、1日でNHKの朝の生放送番組(エイズをテーマとした日)と、お昼の生放送番組(エイズをテーマに視聴者と生でやり取りするテレビ電話相談)の2本に出演しました。その日は所属NGOで『36時間エイズ電話相談』というイベントをやっていて寝ていなかったので、朝の番組スタッフにそのことを話すと、NHK職員のための仮眠室で休むよう勧めてくださり、お昼の番組までひと眠りしました。収録前のメイク室でヘアスタイルを整えていただいたのですが、スプレーで髪の毛1本乱れないようがっちり固められました。そのあとNHKの番組で出演者の乱れないヘアスタイルを見ると、「ああ、この人もスプレーでやられたんだな」と苦笑いしています。
『36時間エイズ電話相談』を実施する直前に、『ニュースステーション』という番組の取材を受けました。故・久米 宏(くめ ひろし)さんがメインキャスターを務め18年半続いたテレビ朝日の伝説的番組です。電話相談が始まった夜、生放送される同番組を見ていたところ、電話相談を紹介する際に画面上に表示された電話番号を見てビックリ! 相談専用の電話番号ではなく事務所の電話番号だったのです! このままでは事務所の電話に相談電話が大量に流れてくるかもしれないと、慌てて取材スタッフに電話をかけ、訂正してもらうよう依頼しました。テレビを見ていると数分後、久米さんが「テロップが間違っておりました」と正しい電話番号を流してくれました。ホッとしたのと同時に、「2回も放送してもらえたね」とスタッフと笑い合いました。
「取材を40分受けて番組で使われるのは5秒」というのがほとんどだったので、「テレビ取材は断ろうか」と当時NGO代表だった 池上 千寿子(いけがみ ちずこ)さんと小声で話していました。
池上さんは東京大学教養学部を卒業後、出版社勤務を経て渡米し、帰国後は数々の翻訳・評論をこなし再渡米。ハワイ大学で人間のセクシュアリティについて研究し、エイズのつきつけてくる社会・性・人間の諸問題にとりつかれサンフランシスコに移住。
1992年に帰国された時、エイズNGO「HIVと人権・情報センター」東京支部代表になられました。当時の日本では血友病の治療に使われた血液製剤による HIV 感染者が圧倒的に多く、日本独特の課題を抱えるより複雑な問題でした。
私がその団体のボランティアメンバーになったのはたしかその2か月くらい前で、以後エイズNGOを辞める 19年間おつき合いが続きました。
ある夜のこと二人だけで居酒屋へ行った時、やせて日に焼けた二人が差し向かいで飲んでいるのを見た店主が「日本に来て大変だろう」とねぎらいの言葉をかけてくれました。どうも、日本に出稼ぎにきた東南アジアのどこかの女性が、安い酒場で静かに飲んでいると思ったようでした。私たちは目を合わせて笑いをこらえながら否定もせず飲み続けました。
33歳で息子を産んだ時、『Baby Diary ベビーダイヤリー 0歳児とママの日記』(みずうみ書房刊)を買って生後5か月までせっせと書き込んだのですが、よく見ると監修者が池上さんと根岸悦子さんでした。思わぬ偶然にビックリ! 至れり尽くせりの情報満載の本で、初めての育児でも不安やストレスを感じなかったのはこの本のおかげかなと今でも思います。情報提供の方法と見せ方、読者への行動の誘導(日記を書き続ける)をするお手本でした。
34歳から58歳までの24年間、東京都内の保健所において、HIVクリニックのカウンセラーとして勤務し、エイズ検査に来られた方、そして陽性(感染している)と告知された方のカウンセリングを行いまたした。
いまなお偏見が多く、根治することができず、一生発病の不安や死への恐怖と闘わなければならない病気を抱える方のカウンセリングには、豊富な情報と細心の配慮が必要とされました。
42歳、HIVと共に生きる人たちの日常を映し出した国際的な写真展『Positive Lives ポジティブ・ライブス』の会場で、写真がご趣味の高円宮妃久子さまをエスコートさせていただき、それぞれの写真について説明をさせていただきました。写真のテーマにはもちろん関心を寄せられていましたが、よほど写真撮影がお好きなんだなと感じました。
43歳、シングルマザーとなりました。息子は小学2年生でした。
●我が子の不登校
小学6年生で卒業式を2か月後に控えた我が子が、ある朝「おなかが痛い」と言って学校へ行きしぶりました。
わたしは即座に担任の先生へ電話して、「病気のため1週間休ませます。その後長引くようであれば、卒様式に参加することを目標に自宅療養させます」と話しました。先生も理解して受け止めてくださいました。
当初は「いよいよ不登校か~」と思いましたが、息子は3週間ほど休んだある朝、何事もなかったかのように学校へ行き始め、その後卒様式にも出席しました。
息子が再登校するまでの間もわたしは仕事があったので、彼を一人留守番させて出勤することもたびたびありました。仕事の合間に自宅へ何度も電話をかけながら、家庭ではいつものように接していました。
わたし自身はまずはで~ん!と構えて、無理に学校に行かせようとせず、いつものように話しかけ、子どもの思考(考え)、感情、行動(身体症状)への気づきや変化を、笑いながら静かに観察していました。
息子は進学した中学校では1日も休まず元気に登校して、大学にも進学しました。今、立派な社会人です。
●発達障害児の保育
44歳から2年間、都内保育園で発達障害をもつお子さんの担当保育を行いました。
1対1の保育で、常に動き続けるお子さんを追いかけながら、発見と喜びの連続でした。
●HIV/AIDSクリニックでのカウンセリング
46歳から50歳までの間に、HIV/AIDS診療を行うクリニックの開業準備から関わり、事務長として働き、患者さんの福祉に関わる事務手続きや相談にあたりました。
少人数のクリニックだったので、医療事務や防火管理、経理、渉外など、医療行為以外は何でもやりました。
47歳、偏頭痛、自律神経失調症、気分変調症、不定愁訴(ふていしゅうそ)と診断されました。
●うつ病だけじゃなかった
48歳の時、初めて精神科を受診しました。それまで頭の中がつねに霧に包まれたようにモヤモヤしていて、眠れない夜が続いていました。ほかにも気になる症状があり仕事に支障が出始めたため、重い腰を上げて病院のドアをたたきました。
診断の結果はうつ病。予想していませんでした。さらにほかの症状から、ここで初めてパニック障害、PTSD、失声症、不眠症、むずむず脚症候群、慢性胃炎と次々に告知され、めまいや手足のふるえを抑える薬も処方されました。
主治医の先生と相性がよく、現在まで続く通院を継続させるモチベーションの一つとなっています。主治医との相性ってけっこう大事でしょ?
今ではこれらのほとんどの病気を克服し、現在はうつ病とうまくつき合っています。
●心理学部心理学科を卒業 認定心理士に
55歳で東京福祉大学心理学部心理学科を卒業し、学位(心理学士)と日本心理学会認定 認定心理士の資格を取得しました。
●カウンセリングルーム開設
55歳(2016年7月1日)、自宅の一室に “東京カウンセリングルーム『こころの元気道』” を開設しました。
『こころの元気道』ではセッションの1回1回が一期一会(いちごいちえ)の真剣勝負と考え、私はセッションの最中、自分の感情を脇に置き、全身の神経をクライエントに集中(フォーカス)させ、脳をフルに使って思考をめぐらせ野田セラピーを行なっています。
野田セラピーとは、
・フォーカシング(来談者中心療法)という「体の声に耳を傾ける感覚的なワーク」と、
・認知行動療法という「頭と行動をコントロールする科学的な訓練」、
・家族療法(ファミリー・セラピー)という「個人ではなく家族を一つのチームと捉え、その関係性から問題解決を図る心のケア方法」をベースに、
・アメリカで研究開発された認知セラピー(トラウマに焦点を当てた認知行動療法)の「ネガティブな思考のクセを柔軟なものへと変えて、短期間で速効性の高いワークで心をラクにする脳のストレッチ」をミックスさせ、
・さらに日本人向けにアレンジしたアプローチを行なう心理療法です。
・そのため1回のセッションで 120分という時間を確保しています。
こんな心理療法を1回 6,000円で行っているのは国内でわたしだけのようです。というのも生成 AI が他に探し出せませんでした(笑)。体験できるのは『こころの元気道』だけしかないようです。
現在もカウンセリングの職人を目指し、日々学びと実践に努めています。
●おわりに
まだまだエピソードはありますが、いま公表できるのはここまでです。自分だけの記憶として大切にしておきたいことや深刻すぎたり恥ずかしすぎたりして人に話せないこと、墓場までもっていくと決めたこと、恋愛の経験のことは書いていません。
もともと人に自分のことを話さないタチなので、ここまで書いたのは 2016年 55歳でこのホームページを作った時が初めてです。自分のことをさらけ出せるのに 55年かかったということです。
最初はもっと短かったのですが、年を経るごとに開示できる事柄が少しずつ増えていきました。性的被害について加筆できるようになるのには 61年かかりました。
作家・宇野千代は 84歳の時に自叙伝『生きて行く私』を執筆しています。65年じゃあマダマダ猶予がありますね。
カウンセリングに来れられた方の中には、このプロフィールを読んで私に興味を持ってくださり、相談してみようと思われた方がいらっしゃいます。自分も同じような体験や病気をして話してみようと思われた方もおられます。そうなると「私の人生も無駄じゃなかったかな」と救われた気がします。
もっとつらい経験をされた方には「本当の地獄はこんなもんじゃない」と言われるかもしれませんが、「それでも力になりたい」と思っています。
自己満足かもしれませんけどね(苦笑)。
最後までお読みいただきありがとうございました。お疲れさまでした。 m(_ _*))m


45年間で約 60,800件の声を聞き続けた経験とスキルで、ご家族みんなが笑顔になれる心理カウンセリングを行っております。
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