西武立川駅から徒歩2分の東京カウンセリングルーム『こころの元気道』(立川市/多摩地域)カウンセリング料:90分 5,000円
東京カウンセリングルーム
『こころの元気道』
中学生・高校生向けのカウンセリング(割引あり)
ご自宅への出張カウンセリングも可能
お子さんの 不登校、いじめ、うつ病、パニック障害などの克服なら
東京都立川市/多摩地域からのご来訪が多いこちらへ
開所時間 | 9:00 ~ 20:00 |
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FAX | 受付/24時間年中無休 |
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「幸せ親子再生専門カウンセラー・認定心理士」の野田和子です。
東京カウンセリングルーム『こころの元気道』 のホームページへご来訪いただき、ありがとうございます。
数あるカウンセリング機関のなかから、『こころの元気道』にたどりついてくださってくださったご縁が、クライエント(相談者)のこれからの人生で、大切な体験となって実を結ぶよう願っております。
筆者(カウンセラー)とカウンセリングの出会いは、今から 45年前の20歳のときです。
不登校や引きこもりの少年・少女たちと出会いサポートするうちに、カウンセリングに興味を持ち、心理学講座や研修会、ワークショップ、グループ・セラピーなどに参加してスキルを学ぶようになりました。
おかげで、それまで自己嫌悪や劣等感にさいなまれることの多かった私自身も、初めて「生きてて良いんだ」と思えるようになったのです。
その後、さまざまな職種を通して出会った人たちの悩みや苦しみにともに向かい合い、問題の解決に向けていっしょに前へ進んでいくために、カウンセリングを活用するようになりました。
不登校やいじめ、子どもたちへの虐待や少年少女の犯罪・事件の報道に接するたびに、自分の心の奥底から憤りを感じ、自分の非力に落胆することもたびたびありました。
また、子どもたちを救うためには、親御さんやご家族、学校関係者など周りの大人に変わってもらうことがいちばんの近道だとも実感してきました。
子育てで悩んでおられるお母さんやお父さん、ご家族の方々、ご自分だけで抱え込まず、とりあえず一度ご相談ください。希望を見つけ、笑顔で自分の『こころの元気道』を歩いていきませんか?
親御さんが変わればお子さんも必ず変わります。
だいじょうぶ!
私にお手伝いさせてください。

1961年(昭和36年)、鳥取県生まれ。丑(うし)年・おうし座生まれなので(?)、保育園児の頃から「落ち着いている」とよく言われるようになりました。
20歳の頃、当時「情緒障害児」と呼ばれていた、「不登校」や「引きこもり」になった少年・少女やその家族の相談・サポート活動を始めました。時には、少女が引きこもる部屋のドア越しに、2時間以上話し続けることもありました。
この頃からカウンセリングについて学び始め、さまざまな心理講座や研修、グループワークに参加しながらカウンセリングのスキルを学び経験を積んでいきました。
22歳の頃から、全日本カウンセリング協議会 加盟団体「セルフ《自立》カウンセリング研究所」のグループ・セラピーに複数回参加し、スキルと経験を積みました。
同じ頃、保護観察になった少年・少女たちのサポート活動やカウンセリングを行っていきました。
24歳、更生保護法人 日本更生保護協会に就職し、その後、法務省保護局『更生保護』編集部へ出向。全国で約4万6,000人以上おられる保護司さん向けの機関誌『更生保護』の編集に携わりました。
29歳、エイズ問題に関わるようになり、エイズNGO(非政府組織)の役員を務めながら、HIV感染について不安や悩みを抱えた方や感染した方(HIV陽性者)のカウンセリングやサポート活動、啓発活動、マスコミ対応、行政との交渉、相談員の研修講師、講演会講師、執筆等を行ってきました。
34歳から58歳までの24年間、東京都内の保健所において、HIVクリニック・カウンセラーとして勤務し、エイズ検査に来られた方、そして陽性(感染している)と告知された方のカウンセリングを行ってきました。
46歳、HIV/AIDS診療を行うクリニックにおいて事務長として働き、患者さんの福祉に関わる事務やカウンセリングなどに携わりました。
55歳(2016年8月1日)、〝東京カウンセリングルーム『こころの元気道』“を開設しました。
現在65歳。カウンセリングの職人を目指しています。
【資格・免許】
公益社団法人日本心理学会 認定心理士
保育士
幼稚園教諭
心理学士
【対応可能な心理療法など】
フォーカシング(クライエント中心療法)
集団心理療法/エンカウンター・グループ
認知行動療法
更生保護カウンセリング
HIV/AIDカウンセリング

自分でもめまいしそうなくらいの長文ですが、チョットのぞいてみてください。
・老け顔の保育園児
4月生まれのせいか、生まれつき他の赤ん坊よりおとなしく「老け顔」でした。
保育園にころクラスメイトたちから浮いていたそうで、一時的に1歳上のクラスに入れられたほどでした。
「落ち着いている」と「年上に見える」というセリフは、それから 30年以上言われ続けるようになりました。
・10年間のいじめと希死念慮(きしねんりょ)
保育園から中学1年までの10年間、クラスでいじめを受けました。
親や先生には気づいてもらえませんでしたし、怖くて自分から大人にに話すこともできませんでした。
保育園の通園バッグを汚されたとき、意を決して、親に対して「○○君に汚された」と話しました。なのに親はその声を聞き流し、何もしてもらえませんでした。このとき、「親には頼れないんだ」と心の扉を閉じてしまいました。
その後も同級生からのいじめは続き、クラスでも完全に孤立していました。小学4年の時、思い切って先生に「○○君が嫌がらせをする」と訴えました。なのに反応はなく、「先生にも頼れない」と思いました。まさに「I am alone 私は誰にも頼れない」と悟ったのです。そして、初めて10歳で「死にたい」と思うようになりました。
TVのニュースで未成年の子どもたちの自殺/自死が報道されるとき、必ずと言っていいほど「いじめがあったのではないか」と伝えられ、多くの場合、学校や教育委員会は「いじめの事実はなかった」とコメントします。
しかし、いじめは大人の分からないところで進むから問題なのです。どんなクラスにもいじめが起きる可能性があるという前提で対策を講じなければ、いつまで経っても犠牲者は減らないでしょう。
・パニック障害の発症
中学2年生になると、いじめはさすがになくなってきましたが、その頃から「パニック障害」の発作に襲われるようになりました。
放課後、テニス部が練習するようすを校舎の窓からながめていた時でした。
突然体が硬直し、お腹のあたりからザワザワしたものがこみ上げ、頭まで達したときには声も出なくなっていました。身体が崩れ落ちそうになり、涙が止まらなくなりました。声も出ないので助けを求めることもできませんでした。
たまたまそばを通りかかった2人の生徒が異変に気づき、私の体を両側から支えて保健室へ連れて行ってくれました。その後、落ち着いたので帰宅しましたが、大人になってから思えば、これが最初の「パニック発作」でした。
同じ頃「胃潰瘍(いかいよう)」を発症し、病院に通うようになりました。その頃はまだ「パニック障害」や「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」という言葉がなく、自分でいろいろ調べて「不安神経症」の症状にあてはまるんだなと思っていました。
高校生になると「○○な症状が出たら潰瘍ができてるな」という目安が分かってきて、「休養」するタイミングも分かってきました。
この頃、クラスメイトが自宅で焼身自殺/自死しました。同じバスケット部に所属していたので、知らせを聞いて愕然(がくぜん)とし、言葉が出なくなりました。その日の放課後、教室の窓からボーっとグラウンドを見ていて、昨日と何も変わらない景色に、大切な人を失った行き場のない痛み襲われ途方に暮れました。
・老け顔の女子学生
高校時代、サッカー部のマネージャーをしていたとき、県内の他校へ練習試合へ行った際、選手がケガをしてその学校の保健室へ連れて行くことになりました。養護の先生にケガの処置をしていただき、選手をベッドに寝かせてグラウンドへ戻ろうとしたときでした。養護の先生から「ねえ先生。生徒は勝手にやらせておいて、お茶を飲んで行かれませんか?」と誘われました。引率の教師と間違われたのでした。
高校卒業後、埼玉県にある保育・保母専門学校に進学し、保育士の資格と幼稚園教諭の免許を取得しました。
その頃、帰省する新幹線の中で、たまたま隣り合わせた小学生と親子に間違われ、知らない方から「お母さんも大変ね~」と労をねぎらわれました。
・むずむず脚症候群の発症
19歳で一人暮らしを始めてしばらくしてから、夜になるとパニック障害の発作や「むずむず脚症候群」の発作に襲われ、眠れない日が続きました。なのに朝になると症状は落ち着くため、仕事に行くことはできましたが、通勤ラッシュのなかでもまれるのは苦痛で仕方がありませんでした。
・情緒障害児のサポート活動
20歳、ボランティア団体「情緒障害を考える会」で、当時「情緒障害児」と呼ばれていた「不登校」「引きこもり」の少年・少女たちやそのご家族の相談・サポート活動を始めました。事務所に集まる少年・少女たちに勉強を教えたり、ご自宅を訪ねたりして親御さんの相談にのったりしました。
自宅の自室に引きこもった少年・少女を訪ね、部屋のドア越しに 2時間以上話し続けることもザラでした。家庭内暴力により家じゅうの壁に穴をあける少年、母親にケガをさせる少女、いろんなケースがありました。

・カウンセリングとの出会い
20歳の頃からカウンセリングについて学び始め、さまざまな心理学講座や研修会、グループワーク、グループ・セラピーを受けながらカウンセリングのスキルを学んでいきました。
22歳の頃から、全日本カウンセリング協議会 加盟団体「セルフ《自立》カウンセリング研究所」の「エンカウンター・グループ」というグループ・セラピーに複数回参加し、スキルと経験を積んでいきました。
グループの参加者がセッションを重ねるごとに少しずつ変化していくのを目の当たりにして、カウンセリングの重要性と可能性をますます感じました。
23歳の頃、グループ・セラピーを通して出会った元映画監督・演出家の巖谷平三(いわや へいぞう)氏とセッション以外でも話す機会が多くなり、助手を務めることになりました。
高校生向けの教育スライドを制作したり、社員教育のために市民ホールのステージで行ったお芝居の脚本づくりや舞台演出の助手、著書の口述筆記など貴重でおもしろい経験をいろいろさせていただきました。
また同じ頃、長期療養中だった巖谷氏の奥様・丁子(ていこ)さんの病院に通い、身の回りのお世話をしたり、ベッドのわきに腰かけてさまざまな話題について語り合いました。丁子さんとはカウンセリングについて話すこともたびたびあり、充実した時間を過ごすことができました。
・ベビーホテルの保育士
その一方で、当時「ベビーホテル」と呼ばれていた 24時間の民間託児施設で保育士として働きました。お母さんのほとんどがホステスさんで、夜間働くお母さんたちから乳幼児をお預かりし、深夜や翌朝にお迎えに来られるまで、食事やお風呂、遊びなどをしながら保育にあたりました。
いわゆるホステスさんというと、派手なメイクと衣装で、派手な生活をしているようなイメージを持っていました。なのに実際お会いしてみると、その中にはシングルマザーも多く、一生懸命に働きお子さんを愛する姿に自分の偏見が恥ずかしくなりました。お母さんから相談を受けることも多く、ここでもカウンセリングのスキルが大いに役立ちました。
・更生保護カウンセリング
23歳、保護観察になった少年・少女たちのサポート活動(BBS活動/Big Brothers and Sisters Movement)を始めました。
少年・少女たちの兄姉のような存在として彼らを支援するボランティア活動で、勉強を教えたり、相談にのったり、一緒にキャンプやバザーをしたり、さまざまな経験を通して子どもたちの心の成長を促すサポートを行いました。
少年・少女たちから相談を受けることも多く、「更生保護カウンセリング」という分野での学びがたいへん役立ちました。
24歳、更生保護法人 日本更生保護協会へ就職。
その後、法務省保護局『更生保護』編集部へ出向して、保護司さん向けの月刊誌『更生保護』(発行部数:約 46,000部)の編集に携わりました。昭和25年(1950年)に創刊された同誌の表紙を一新させることを提案し、心臓バクバクで保護局長に説明して、承認されました。言い出しっぺなので表紙のデザインも手がけることになりました。
25歳、BBS活動が評価され、総務庁(現・総務省)主催「第19回 青年の船」に参加して、50日間オセアニアの青年たちと寝起きをともにしながら、客船「にっぽん丸」で5か国を回りました。下船後、報告書編集委員長を務め、それまで続いてきた報告書のスタイルを一新させました。ここでも表紙とグラビアのデザイン、本文のレイアウトを手がけました。
28歳、現在の上皇陛下が即位されたあとに当時の東宮様(現在の天皇陛下)の立太子礼が執り行われました。その際、日本BBS連盟を代表して、皇居で行われた祝賀会に出席し、宮中晩餐会というものを経験させていただきました。また、BBS活動を行うなかで、高松宮・同妃両殿下に活動を説明する機会を得て、テーブルを挟んで向かい合いお話しさせていただきました。

・HIV/AIDSカウンセリング
バブルがはじけた 29歳の頃からエイズ問題に取り組むようになり、50歳までエイズNGO(非政府組織)の事務局次長を務めながら、HIV感染について不安や悩みを抱えた方・感染した方(HIV陽性者)のカウンセリングやサポート活動を行いました。啓発活動やマスコミ対応、行政との交渉、「HIV/AIDSカウンセリング」の研修講師、中学・高校でのエイズ講演会講師を務め、執筆にも携わりました。
根治療法がないHIV感染症には、治療以外に戦わなければならない課題がいくつもあり、HIV陽性者への対応の難しさをいつも感じていました。ここでもカウンセリングのスキルを活かすことができました。
32歳、流産し、授かった命を失う喪失感、愛する者を失う悲しみと苦しみを味わいました。自問自答のセルフ・カウンセリングが救いになりました。
34歳から41歳までの間に、埼玉県や東京都からの相談を受けて、エイズ電話相談の開設と運営に携わり、相談員の育成にもあたりました。
34歳から58歳までの24年間、東京都内の保健所において、HIVクリニックのカウンセラーとして勤務し、エイズ検査に来られた方、そして陽性(感染している)と告知された方のカウンセリングを行いました。
いまなお偏見が多く、根治することができず、一生発病の不安や死への恐怖と戦わなければならない病気を抱える方のカウンセリングには、豊富な情報と細心の配慮が必要となりました。
42歳、HIVと共に生きる人たちの日常を映し出した国際的な写真展『Positive Lives ポジティブ・ライブス』の会場で、写真がご趣味の高円宮妃久子さまをエスコートさせていただきました。
・HIVクリニックでのカウンセリング
46歳から50歳までの間に、HIVAIDS診療を行うクリニックの開業に関わり、事務長として働き、患者さんの福祉に関わる事務手続きや相談にあたりました。少人数のクリニックだったので、医療事務や防火管理、経理、渉外など、医療行為以外は何でもやりました。
・我が子の不登校
46歳の時、当時 小学6年生だった我が子が不登校になりました。無理に登校をさせようとせず、本人の気持ちを第一に考え、私自身が焦らないことにしました。
不登校は3か月弱で解決し、無事卒業式を迎えました。進学した中学校では、1日も休むことなく通学できました。
・うつ病だけじゃなかった
48歳の時、初めて精神科を受診しました。それまで頭の中が霧に包まれたようにモヤモヤしていて、眠れない夜が続いていました。ほかにも気になる症状があり仕事に支障が出始めたため、重い腰を上げて病院のドアを開きました。
主治医の先生と相性が合い、現在まで続く通院を継続させる原動力の一つとなっています。主治医との相性って結構大事でしょ?
診断の結果は「うつ病」。予想していませんでした。さらにほかの症状から、「パニック障害」「PTSD」「失声症」「睡眠障害」「むずむず脚症候群」「慢性胃炎」と次々に告知され、めまいや手足のふるえを抑える薬も処方されました。
その後、「口唇ヘルペス」「偏頭痛」「不眠症」「自律神経失調症」「気分変調症」を発症していきました。
いまでは、そのほとんどの病気を克服し、うつ病・むずむず脚症候群とうまくつき合っています。
・心理学部心理学科を卒業
51歳で大学の心理学部心理学科に入学し、学位(心理学士)と日本心理学会認定 認定心理士の資格を取得しました。
・カウンセリングルーム開設
55歳(2016年8月1日)、自宅に “東京カウンセリングルーム『こころの元気道』” を開設しました。
現在65歳。カウンセリングの職人を目指し、日々勉強と実践に努めています。
★最後までお読みいただきありがとうございました。お疲れさまでした。

45年間で約60,800件の声を聞き続けた経験とスキルで、家族が笑顔になれる心理カウンセリングを行っております。
一人で抱え込んでいるあなた。
ひと言でもいい。
あなたの声を聞かせてください。